西馬音内そばの発祥、弥助そばや。

弥助歴史館

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秋田県の羽後町・西馬音内エリアは、日本三大盆踊りのひとつ「西馬音内盆踊り」が伝わる地です。
江戸時代には、西馬音内街道の宿場町として栄えており、月に3回の市(いち)が開催され、歩き疲れた体を休める旅人や海陸の物産を持ち寄る商人で賑わう商業の町でもありました。

この西馬音内の地で、初代・弥助は、農家の七男に生まれました。10歳を過ぎたころ、弥助は家族に何も言わないまま放浪の旅に出ます。10年経ったある日、ふらりと帰ってきた弥助は、見違えるような若者になっていたといいます。

旅の途中で大坂の蕎麦屋に奉公し、そこで「冷やがけ」を習得してきた初代・弥助。

帰郷して間もなく、西馬音内の中央に位置する「二万石橋」のたもと、清き水の湧き出る現在の場所に開店したのが「弥助そばや」です。

「二万石橋」は、二万石を持つ2つの藩の殿様が、この橋を渡り江戸へと上ったことから、その名がついたと云われています。西馬音内の中央に位置する「二万石橋」とメイン通りは人々で賑わっていたことでしょう。

当時は、日本海航路の北前船によって物流が担われていた時代で、海の物産をはじめ、土崎港で降ろされた西日本からの積み荷が、雄物川を舟で上り、内陸へと運ばれていました。

初代・弥助は、北前船に乗って大坂・砂場の地で修業し、蕎麦の製法を持ち帰ったと伝えられています。

初代・弥助が持ち帰った「白く細い蕎麦」は、当時、東北では見たことがないものだったそうで、街道を行き交う旅人や商人、地元の人々の人気を集めたといいます。当時の町の賑わいと行き交う人々の喧騒に「弥助の蕎麦」の特徴である、しっかりと盛られた「冷やがけ」は大変喜ばれたようです。やがて「弥助の蕎麦」は西馬音内の地域に根付いて、「西馬音内そば」文化へと広がっていったのです。

文政元年(1818)創業より、およそ200年。
「弥助そばや」は、当時の味と製法をそのままに、初代・弥助が持ち帰った蕎麦を守り続けています。

 

※江戸時代から続く蕎麦屋のうち、そのルーツは「更科」「砂場」「藪」の三系統とされています。
「更科」は信州、「砂場」は大坂、「藪」は山形の流れから三大のれんとなり、現代では、それぞれの蕎麦の配合や特性をもとに洗練され、独自の分野が確立されています。

当店「弥助そばや」は、大坂・砂場系統の配合にこだわり、蕎麦をつくり続けております。

 

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